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ドキュメント

MAT Exhibition vol.2
「絵画の何か」
トークシリーズ「絵画の夕べ」
第3回「絵画のこれから」

佐藤|そうですね。自分とかそれぞれの作家さんが多感な時に吸収してきたものが、それぞれの肥やしになって、どこを吸収して何を目指そうと思ったところからが作家のスタートになると思うのです。だからこそ、何かルールとか手がかりみたいなものをもとに、「自分はこういう方向でやっていこう。」と皆思ってやっていると思います。何かしら、普通というのが普通ではないことになっていて、確か今回の企画テキストにも「ただ良い絵が見たいだけ、描きたいだけ、のはずなのに!」と書きました。こういうことは「教育への弊害」とも言えるかもしれませんが、何かしらスタートしたと思った時に、肥やしとして取り入れたものからすでに何か間違った方向に進んでいるかも知れない。それでいろいろな意味で、私自身はフォーマルな立場を選択してはいますが、川角さんが話している「見る」という状態は、立場的な問題、美術のルールや枠組みの手前の段階について話しているので、その手前を皆が周知してくれれば、こういうこともあり得るのかとか、広がるのではないかと思い、可能性を感じました。ただそうなった場合、本当の意味でなんでもありになってしまう可能性もある。けれど、「見る」という状態が一般化した場合には、皆がその視点を持っていれば、良し悪しを見ることができる、新しい目で見ることができるのではないかなと思っています。

島|1つ質問です。佐藤さんの企画テキストの中で「ただ良い絵が見たいだけ」、その次に「“描く事が生きること”に直結している人を除いて」と書いてあります。その除いた人ってどんな人ですか。誰を指していますか。

佐藤|それを言うとアウトサイダーの人や、もしくは戦争など社会的混乱において、何か表現せざるを得ないような人たちです。

島|それは狭いかもしれません。描くことが生きることに直結している人って結構多いような気がします。マイノリティーという感じがしないです。

佐藤|直結している人、例えばどういう人たちでしょうか。

島|草間彌生さんがそうだと。

佐藤|私の中では草間さんはアウトサイダー寄りな感じかと思っていて、やはりそれは生きることに直結しているなと思っています。

島|ここにいる5人は直結していないのですか。

佐藤|そうです。

島|それは皆はっきりそうなのでしょうか。

小島|そうですね。自分で選択して絵を描き始めた時点で、生きることと描くことが直結はしていないと思っています。

佐藤|すごく暴力的に区切っているので、多分異論がいっぱいあると思います。

川角|生きること。どうやったら生きることになるのでしょうか。

佐藤|本当の意味での、生きるということですかね。

川角|それは職業ですか。

佐藤|そうすると、職業で絵を描いている人もそうなるので、でもそういうことではないと思います。

休憩

佐藤|ここからは会場の皆さんにいただいた質問に答えたいと思います。作品のオリジナリティについてどう考えていますか。

堀|僕は絵も立体も制作しますし、絵だけでもいろいろな作品があるので、よく人からは「複数の作家の作品かと思った。」と言われることがあります。もちろん1人の作家の証として「この絵は誰の絵かわかる。」というのは観る人にとっての魅力であると思います。しかしそのオリジナリティという点で、大学や高校、小学校でもそうですが、「美術」を学ぶと自分でやりたいことができなくなっていく、制限が増えていって不自由になっていきます。僕の場合、大学でまず2年間美術を学んだ時に絵が描けなくなりました。その時僕はその解決策として、人に見せる前提ではなく、ドローイングをたくさん描きました。1ヶ月で約200枚描いて、そしたら自分自身の中で少なくとも何か手を動かして平面上に表せるものがあるという自信がついて、そこから僕はスタートし直したのです。ドローイングをノートに毎日日記のように描きますが、その毎日描き連ねるという「連続性」が面白いと思って、1枚の作品の中で「連続性」を成立させられるかということを考えて、絵画を描いています。
平面、キャンバスというのは真っ白なのでゼロから始めないといけないのですが、立体の場合は、例えばコップとボールペンがあったら、そこにはコップとボールペンの形があって、自分がそれを組み合わせて、自分にとって何か好きな形にできる。ゼロからのスタートではありません。絵画のように構図のことを考えたり、余白の部分をどう処理するかを考えたりしないで済むのが立体作品だったので、僕の場合は立体制作の方が自由を感じることができます。でも絵画を学び始めたので、何の成果もあげないまま絵画を終わらせたくないという気持ちで、立体に癒されながら絵画にしがみつくという形で制作をしています。
その僕のオリジナリティについては、方法自体もそうですし、画面の中にイリュージョンを作るというよりは、立体でやっているような、ものを組み合わせるということに近くて、キャンバスの場合はそれが行為を組み合わせることになります。そのように絵の具を使うことが僕にとってのオリジナリティにつながっていると思います。

川角|オリジナリティ。そもそもこの質問が指す作品というのが一体どういう作品のことなのか気になります。作品というのが、どこからが作品なのかすごく気になって、美術館に置かれた作品なのか、それともスタジオで何か1と1を組み合わせたら作品なのか。それだけでもこのオリジナリティという言葉の意味がすごく変わってくる気がします。なので、美術館での作品であれば、その美術館というものを考え、美術館が何であるかということを踏まえたうえで、オリジナルということがおそらく現れてくると思います。「何が美術館」とか「何が美術」ということがあって、オリジナルを考えるのであれば、やはり自ずと美術史やこれまでの作家や作品が歩んできたことを踏まえて、僕はそのオリジナルという、新しさみたいなものを考える必要があると思います。
だから今回の展示でもそうですが、作品を生み出すということは生きることのように皆やっていて、ただそれを見せる場所がどうしても美術のルールに基づいた美術館やギャラリーなどの展示するためのスペースだというのが、僕自身の目の前にある現実です。だからこそ、多少は勉強もして、自分の考えをまとめて、美術館やギャラリーなどの箱に挑んでいく姿勢は必要だと思います。
自分自身が、作品をどのように表現したいのか、今後の作品については、今回「見る」というキーワードが出ましたが、それは別に僕が築き上げた考え方でもなく、今回の展示を通して見えてきたこと、単純に今回のトークのキーワードですが、おそらくそれは次の作品につながるきっかけにもなると思います。それを踏まえ、作品を生み出して、できあがった作品を観てもらって、またその後に自分自身が観るという話になったり、時にはならなかったりするのかなと思います。

守本|作品のオリジナリティについてと、自身の制作について考えていました。オリジナリティを出さなければとか、この作品はオリジナリティがあるとかないとかを、これまで考えてこなかったというのが正直なところで、自分が絵画を描いたり、作品を作ったりするその方法も、自分自身は独自のものである必要はないと考えています。モチーフや組み合わせ、色、作品から出てくる「何か」なども、他人とは全然違うものを作るという意味でのオリジナリティはあまり考えていないです。
しかし作品を作っていく時に、それでも「オリジナリティがあるもの」というのはあると思っていて、誰とも似てないという意味でのオリジナリティのある作品ではなく、作品がそのものとして存在できる状態を目指しています。自分自身の制作や作品に対して、散文的ですが言葉を載せています。「“自分にとっての最も正確なかたち”は精度の低い次元でしかつかめない。」とか、「何かよくわからないものを作っています。よくわからないものだけど、自分にとってピンとくる判断基準みたいなものはあって、『こうじゃないとなぁ』という感覚をたよりにつくっています。」と書いていて、ほとんどそれが答えです。私にとってそれを本当に実践することが1番ストレートにできることです。

小島|僕も堀さんが話していた「教育」についての話が、聞いていてしっくりきます。学生時代に自分の言葉を使って制作や作品について説明したり、意見を共有したりしていくうえで、「水で油を表現する」というか、どうしても相容れない話に陥るわけです。そうした時に、「神様探し」の状態なのかなという感じがします。見たこともないので、それぞれ抱いている神様のイメージが違うけれども、皆ずっと永遠に答えがないことについて話し合っている状態で、自分が制作するうえでやっていくということは、「神様」の話ではないですが、瓦を磨き続けて鏡にしていくような作業です。瓦をずっと磨いていても鏡にはならない、でもその鏡にするという熱意や行為が、自分が作品を作っていくことなのではないかと漠然と思っています。合宿した時に他の人のいろいろなキーワードや言葉を、僕なりに解釈しようと一生懸命考えるのですが、やはり全ては理解できないし、共有できないです。だから逆説的ですが、オリジナリティという言葉に多様な意味がある中で、後付けでなんとでも説明できてしまうと思います。特に今はインターネットも普及し、国内外の情報もすぐ分かるので、それが実際に起こっているリアルだとしても、どこかヴァーチャルな感じが現在の世の中の状態だと思います。そしていざ実際に自分の目の前で自分の手を動かして、「この絵具の垂れ方どう?」とか、「この絵具の重なり方どう?」とか、自分自身でジャッジしていくこと、それが1番オリジナリティの根源に近づいていくことなのではと思い、今も続けている状態です。

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プロフィール
川角岳大
Gakudai Kawasumi

アーティスト
1992年愛知県生まれ。東京都在住。
犬、カニ、車、パイナップルなどの絵を描き、木材なども使用した大きなものなど、幅広く制作している。
主な展覧会に「The Bear year」(Gallery FINGER FORUM、愛知、2013年)、「science fiction Ⅱ」(Art spot Korin、京都、2014年)、「ド根性絵画説」(名古屋市民ギャラリー矢田、愛知、2015年)、「アートアワードトーキョー丸の内 2015」(丸ビル1F マルキューブ、東京、2015年)などがある。

《I’m a dog》2015


小島章義
Akiyoshi Kojima

アーティスト
1979年愛知県生まれ。愛知県在住。
絵画作品を主題に平面作品の他、近年ではレリーフ、立体作品なども制作している。
主な展覧会に「FROM yadokari tokyo vol.14」(itadaki BLDG.、東京、2015年)、「Unknown Nature」(早稲田スコットホールギャラリー、東京、2014年)、「アートプログラム青梅 雲をつかむ作品たち」(青梅市立美術館、東京、2013年)「little island」(GALLERY TERRA TOKYO、東京、2013年)などがある。
little-island.webnode.jp

《factor X》2015


堀 至以
Chikai Hori

アーティスト
1988年愛知県生まれ。石川県在住。
ドローイングを制作の土台とし、抽象的な絵画及び立体の制作を行っている。制作の中での発見を形態化していくことで、変容する可能性を内包した作品について思考している。
主な展覧会に「Make The Plant」(問屋まちスタジオ、石川、2014年)、「ファン・デ・ナゴヤ美術展2014 虹の麓-反射するプロセス-」(名古屋市民ギャラリー矢田、愛知、2014年)などがある。
horichikai.web.fc2.com

《Fragment》2014


守本奈央
Nao Morimoto

アーティスト
1991年兵庫県生まれ。愛知県在住。
平面、立体を問わず、「なんともいえなさ」「とるにたらなさ」などの弱くかすかな気配をテーマに手法を固定することなく制作をしている。作品がなにものにもなりきらない状態をよしとし、従来とはことなる絵画へのアプローチを行っている。
主な展覧会に「ド根性絵画説」(名古屋市民ギャラリー矢田、愛知、2015年)、「森のオープンスタジオ」(美濃加茂文化の森、岐阜、2015年)などがある。
www.nao-morimoto.com

《オムニバス(いのち)》2015


島 敦彦
Atsuhiko Shima

愛知県美術館館長
1956年富山県生まれ、愛知県在住。富山県立近代美術館、国立国際美術館を経て現職。主な企画に「瀧口修造とその周辺」(国立国際美術館、大阪、1998年)、「小林孝亘」展(国立国際美術館、大阪、2000年)、「O JUN」展(国立国際美術館、大阪、2002年)「絵画の庭 —ゼロ年代日本の地平から」(国立国際美術館、大阪、2010年)、「あなたの肖像 —工藤哲巳 回顧展」(国立国際美術館、大阪、2013–14年)などがある。


佐藤克久
Katsuhisa Sato

美術家
1973年広島県生まれ。
愛知県在住。活動当初は概念的な立体や写真作品を発表していたが、近年は絵画形式を中心に制作している。
主な展覧会に「反重力」(豊田市美術館、愛知、2013年)、「リアル・ジャパネスク」(国立国際美術館、大阪、2012年)などがある。MAT, Nagoyaのコミッティーメンバーも務める。
satokatsuhisa.jimdo.com

《ものだね》2015


開催日|2015年12月19日(土)18:00–20:00
会 場|Minatomachi POTLUCK BUILDING 1F: Lounge Space
スピーカー|川角岳大、小島章義、堀 至以、守本奈央、島 敦彦
聞き手|佐藤克久
来場者|93人