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MAT Exhibition vol.3
丹羽良徳
「名前に反対」
レビュー|新見永治

—やがて、小屋の煙がすっかり消え去り、少年が再び口がきけるようになると、彼女はタカの真の名を甥に教えた。この名で呼べば、タカはまちがいなく、空から舞い降りてくるはずだった。—(『影との戦い ゲド戦記1』)

またもがいている、丹羽良徳。興味あるものが見つかると、やみくもに突っ込んでいき、どうにもならなくなって、もがく。かっこ悪いぞ、でも、それこそが丹羽良徳。
もがくあまりに今回の作品《ゴミの山の命名権を販売する》の中でも「このプロジェクトは地域のためになるんです」なんて言ってしまう。アートの「効能」を語ることは、それもアーティスト自ら口にするのは、アートの制度を楽屋落ちにしかねない繊細で危険な行為だと思うが、作品ではそれも包み隠さず公開している。ハラハラしながら見た。真っ先にそこが印象に残った。

そして名前だ。展覧会のタイトルは「名前に反対」。これだけでは誰が名前の何について反対しているのかはよく分からない。もし僕が反対するとしたら、名前というものが持つ例えようもない大きな力に対してだろう。
展覧会場で配布された作家による文章に「現代の管理社会の視点から言えば、名前がないということは、社会的に存在しないということを意味する。」と書かれているように、モノに名前がないということは、それが存在しないということだ。名前を知ることの衝撃を、手話通訳者のシャーラと教育を受ける機会のなかった27歳のイデルフォンソとの出会いを引き合いにして、スティーブン・ピンカーは『言語を生み出す本能』の中で次のように記している。「イデルフォンソが、ものに名前があることを理解する場面は、ヘレン・ケラーのエピソードを思わせる。シャーラが『猫』という手話動作を教えようとしたとき、堰が切れた。イデルフォンソは身の回りのあらゆるものの手話動作を教えてもらいたがり、まもなく、自分の生い立ちを一部ながらシャーラに伝えられるようになった。」
そもそも、どうやって僕たちは名前というものを使うようになったのだろう?太古のヒトを想像してみよう。温暖な気候で食料が豊富なところでモノに名前をつける必要があるだろうか。極寒の地で飢えに苦しみ絶滅の淵に立たされたとき、一人ではどうにもならず仲間と力を合わせて必死の思いで獲物を手に入れようとしたとき、「オレ」「オマエ」「アッチ」「コッチ」という呻きにも似た声が絞り出されたのではないか。ひとたび名前が生まれれば、もうその勢いは止まらない。名前が連なって、やがて言葉となる。
こうして現代に至るまでに僕たちは途方もない数の名前を生み出した。名前のおかげで戦争、政治、お金、いろいろな制度が作られてきた。もちろんアートもその一つだ。
丹羽良徳は、そんなさまざまな巨大な制度の中でもがき続けているように見える。

プロフィール
新見永治
Eiji Shimmi

パルル運営メンバー[Co-director of Parlwr]
1957年京都府生まれ、愛知県在住。1982年より名古屋市のスペース「パルル」でリーダーを置かずに集団で運営しながらコミュニティ作りの実験を続けている。音楽ライブイベントを多く開催する他、「あいちトリエンナーレ2013」では「プロジェクトFUKUSHIMA!」の一員として参加。マレーシアのアートプロジェクト「Gerakan Seni 2015」にて「搬入プロジェクト」を実施するなど、ジャンルレスな企画を実践し続けている。
http://www.parlwr.net