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ドキュメント

MAT Exhibition vol.4
ほったまるびより-O JUNと吉開菜央 Part2
–画家の三日間とほったまるびより自家製4DX公演–
レビュー|千葉真智子

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無垢と野蛮 夢現つの3日間

 吉開菜央×O JUN二人展の第二弾。今回、場所を旧・名古屋税関港寮に移したこともあるが、たった3日間という短さも重なり、夢現つの出来事、日常の傍らに平行してあるもう一つの日常を垣間見るような、ある種の独特な経験の場を作りあげていた。
 古民家を舞台に、4人の踊り子が互いの匂いを思いっきり吸い込み、「ぽんっ」という音に変えて伝え合う。初めての経験への驚きと歓喜。そして、家のなかに染み付いた様々な匂いを吸い込んでは、ひとりの少女に口移しに伝える。ほうっておくと溜まるものの日和。「ほったままるびより」の名前にふさわしく、今度は、嬉々として髪の毛や捲れ落ちた皮膚をかき集めて、小さな人形を作りあげる。その無垢な振る舞いは、一転して、恐るべき結末へと展開することになるのだが、無垢であることの狂気、野蛮さを軽やかに描き出した、この『ほったまるびより』は、ダンスを出自とする吉開らしく、「身体」を媒介にした、身体の物語だと言ってもいい。白い柔らかな肉の感触、皮膚の擦れる音、見えない匂いは口を通して音として顕在化し、映像は「視て」いるにもかかわらず、その安定した距離を超えて私たちに肉薄してくる。
 今回は、スクリーンを背にセットを組み、4人の踊り子と吉開自身という生身の人間が、映像の世界と競演してパフォーマンスを繰り広げ、クライマックスでは、水が流れ落ちるという自前の演出も披露された。記録された過去の時間であり二次元でもある映像と、生身の人間を含む舞台の「いまここ」の出来事は、ともすると齟齬をきたしかねない。しかし、古色を帯びた会場の雰囲気は映像の世界との親和性が高く、観客席が舞台と地続きなこともあって、観客を含む一つの世界が違和感なく生み出されており、舞台上の小さな花を手に取って食いちぎるまでに力強さと野蛮さを倍増させたパフォーマンスに思わず引き込まれる。
 O JUNは、吉開の身体に呼応するように、「画家の3日間」として自身を観客に晒す。コレクションの展示もその一つであろう。描く自分の傍らにある選ぶ自分。作品然とした大きなものは殆どなく、小さな作品の数々は、O JUNの趣味性や、それだけでなく交友関係をも反映しており、作家のプライバシーを覗き見するような感覚に襲われる。この点を、本展ではどれほど厳密に扱おうとしたのだろうか。O JUNのフレームのなかで別の作家の作品を視るという入れ子構造によって、単独の作品の強度は薄れ、視る行為のなかに様々な雑音が介入し、はからずも自分自身の視るという行為のうちに、制度化された「美術」と、「美術」以前の脈々と続く趣味的世界にある「絵」「もの」との間にある境界の恣意性を実感することになる。
 一方、連日披露された公開制作でO JUNは、絵についての自身の考えを口にしながら、壁一面の白い画面にドローイングを描き、また黒板にチョークでさらさらと、ときに砕けるほどの力強さでゴリゴリと風景を描いてみせる。最小限の要素に切り詰められたO JUNの作品は、愛らしくありながらも、常に絵が完成する手前に踏みとどまろうとするかのような、ある欠如を抱えている。公開制作でみせた、描く線の選択と、止める・消すという選択は、こうしたO JUNの絵が抱える欠如の理由を垣間見せており、作家が絵を描くこと―描くことが消すことでもあること―のリアルを、わずかな時間のなかではあるが実感させもした。
 吉開の無垢さと野蛮さは、ときに身体に不可をかけながら、ライブペインティングを実践してきたO JUNを大いに触発したのではないだろうか。公開制作は、描くことの無垢と野蛮さの一端を披露しており、一見、接点のないかのような二人の作品が、その心性においては大いに通底していることが感じられる、夢現つの3日間となった。

プロフィール
千葉真智子
Machiko Chiba

豊田市美術館学芸員
愛知県生まれ。同地在住。
岡崎市美術博物館学芸員を経て、2015年より現職。近現代美術を専門とし、美術館外の空間でも積極的に企画を行っている。
主な企画に「切断してみる。―二人の耕平」(豊田市美術館、愛知、2017年)、「ほんとの うえの ツクリゴト」(岡崎市旧本多忠次邸、愛知、2015年)、「ユーモアと飛躍 そこにふれる」(岡崎市美術博物館、愛知、2013年)などがある。