ドキュメント
「絵画の何か」は、美術家の佐藤克久が企画の中心となり、2015年、2017年と続けられた今回3回目となるシリーズの展覧会である。ここ近年、現代アートの展覧会で平面作品を見る機会は減ってきている。その傾向は昨今の国際的なトレンドを示す芸術祭では殊更顕著であり、また美術批評においてもインスタレーションや映像といった空間や時間の領域にまたがるものが中心となっていて、絵画をはじめ平面の要素がある作品は、作品単体についてではなく、あくまで空間の中に設置された状態で空間そのものが作品として語られる。(*)一方、制作する側にスポットを当てると、絵画が制作の起点となっている作家が多く、実際にアーチストとして活動している作家の大多数が何らかの形で絵画をはじめ平面作品を手がけている。そういう状況を背景に今回の「絵画の何か」を考えると、まさに自らも平面作品を手掛ける作家である佐藤ならではの、ある種の危機感とともに企画されたものではないかと推測される。つまり、この企画そのものが「絵画が現代アートの中でどのように存在していけるのか」という問題提示であり、「現代アートの中の絵画性の可能性の模索」である。
さて、前期に紹介された設楽知昭は長く愛知県を拠点にしてきた。作品が発表されるたびに、素材や制作方法、作品の形式が刷新され、彼が常に新たな表現を追い求めていることが示されてきたが、絵画のイメージも強い作家である。今回は初期作品から近作までかなり幅の広い時代から作品が選ばれ、彼のこれまでの制作について凝縮して見ることができるものとなっていた。作品はランダムに選ばれ、作品同士の意味づけが生まれないように意識して展示したとのこと、制作年も、モチーフも、素材も、制作方法も全く違う作品が並んでいたにも関わらず、そこに設楽の制作に対する一貫した態度が感じられたことはまさに圧巻であった。
会場で配られたパンフレットには、作家が常に「絵画とは何か?」ということを考え続けているということ、そして「絵」は人が生きていくこと、人間の本質と同義なのではないかと考えていることが、自身の言葉で語られていた。私は設楽の作品の展示を見るといつも、まだ科学と美術が分化する前の時代のミュージアムの起源とも言われるヴンダーカマー(驚異の部屋)を思い起こさずにはいられない。作品の中に感じる、目の前の世界を理解しようとする欲求と意識世界への探索が、私の中にある「見たい」という驚異への欲求を強く意識させるからだ。そして、その欲求はいつの間にかわたしを作品世界に引きずり込む。すっかり作品の中に入ってしまった私には、作品が展示される以前からある展示空間でしかないはずの壁や床までもが、作品と関連してはじめて存在しているように感じられる。設楽の作品はそれが立体であれ、別の形態をしたものであれ、そこに世界を立ち上げる。絵画がそこに世界を立ち上げようとするものならば、彼の作品は紛れもなく絵画性を持ったものであることが明らかである。
後期に紹介された秋吉風人は、愛知だけではなく国内外を拠点に活動してきた作家である。彼は設楽とは全く違う絵画のアプローチを試みる。初期から続く《room》、2013年に始められ透明なアクリル板に描かれた《naked relations》、近年始められた《We meet only to part》という3つのシリーズから作品が選択され、いずれも絵画を成り立たせている要素にスポットを当てたものである。
《room》は一見ミニマルアートのようにも見える。さほど大きくない、筆跡もなく均一塗られた金色の画面には、わずかな色のトーンの違いによって空間が描き出され、その洗練された画面の美しさに魅せられる。二次元の世界の中に三次元のイリュージョンを立ち上げることは絵画の基本的な要素であり、これらの作品はその絵画の原始的な仕組みに迫ろうとするものであることに違いない。ところが、金色という光を反射させる色を使って見るものの視線を跳ね返し、絵画の中には入れようとはしない。《naked relations》では、絵画の支持体を透明なアクリル板にすることで、絵画に立ち上がるイメージの土台そのものを崩そうとしているように見える。その上で、それが絵画かどうか成り立つかどうか実験しているかのようだ。《We meet only to part》では、一つの絵画空間の中に二つの全く別の絵画空間を組み合わせている。いずれも絵画の形態を保ちながら絵画を成り立たせる原理を少し変え、それでも絵画作品として成り立つかという、絵画概念へのアプローチが作品の基礎にある。つまり、作品はコンセプチュアルアートの原理の上に成り立っている。とはいえ、彼の作品はやはり絵画の様相を示しており、何よりも伝統的に絵画において最も重要視されてきた要素、見るものに視覚的な喜びを供給することが前提となっている。画面空間の中に色と形で構成されたイメージがもたらす視覚の喜び、それを作品の原点として死守している点で、やはり正当な絵画作品であると言うべきだろう。秋吉の作品はデュシャンが批判した網膜的満足と彼が生み出した概念の両方を軸にして、「現代アート」に挑んでいる。
いずれの展示も絵画というメディアを使った表現の可能性を示すものであったと同時に、美術とは何かという根源的な問題に対する強い問題意識を感じさせる良質なものであった。
(*)小崎哲也『現代アートとは何か』河出書房新社、2018年では、このような状況について「IX 絵画と写真の危機」で詳細に取り上げている。
名古屋市美術館学芸員
富山県生まれ。
あいちトリエンナーレ2010ではキュレーターを務めた。主な展覧会に「放課後のはらっぱ 櫃田伸也とその教え子たち」(愛知県美術館・名古屋市美術館、愛知、2009年)「ポジション2012 名古屋発現代美術 この場所から見る世界」(名古屋市美術館、愛知、2012年)、「親子で楽しむアートの世界 遠回りの旅」(名古屋市美術館、愛知、2014年)などがある。