ドキュメント
泉太郎は制作過程で意識している事柄として、次のようなキーワードを挙げている。
「映像の不確かさ」「撮れているものが全てではない」「見えているもの、そうだと思っている物事を疑う」「裏側、周辺、背景」「起動と待機」「言葉の曖昧さ」
本展で発表された作品を泉の関心に引き寄せて見ていくと、驚くほど作品同士が交錯し、共鳴し合い、展示そのものが立体的に浮かびあがってくる。それは全体で一つの作品のように見えるし、個々の作品は当然、独立した意味をもちつつも、全ての作品が考え抜かれた配置と効果をもって、互いに作用し合いながらそこに存在していた。
壁面全体を使った作品《使用済み扉/立て掛け画板/磨かれた錠剤》について考えることから始めてみよう。というのも、会場に入ってすぐに、この作品が全体の中でひとつの起点となっているように見えたからである。
不揃いの白いパネルが左右の壁面に取り付けられ、壁とパネルの間には人が一人入れる幅の隙間にモニターが設置されている。モニターには、そこで何をするでもなく待機していた人物たちが映し出されている。一方、パネルの手前には3連のモニターが左右対称に吊り下げられ、パネルの表側を撮影した映像が流れているのだが、パネルを動画で撮影してももちろん何の変化も起きず、ほとんど静止画に見える。ここで重要なのが、白いパネルと裏側で待機している人物を同時に撮影している、ということであろう。静止画に見間違えられそうなパネルの映像は、その裏側の出来事や時間、人物の気配をなんとか映像に留めようとしている。裏側のモニターで示唆しているのは、見えないけれど確実に存在しているということ。見えないことは存在していないことではなく、泉はそれを「待機状態」だと言う。
この試みは、映像が目の前の事象を正確に捉えられると信じて疑わない我々に対して、「本当にビデオカメラは目の前のことを捉えきれているのか?」という泉による問いかけでもある。見えているものだけが目の前の出来事ではなく、その裏側や背景、周辺をも含めてそれが成り立っているとするならば、映像ではそうした全ての事柄は証明できない、ということが証明されるし、その事実を理解したうえで映像と対峙すべきである。
泉の展示には決まって映像作品が登場する。しかし、その映像の使い方は、いわゆるプロセスや行為、語りを主とする、いわば映像の特徴を活かしたタイプのそれとは圧倒的に異なる。何が撮れて何が撮れないのかを慎重に考えながら泉はビデオカメラを使い、新しい映像の見せ方/見え方の地平を拓こうとしている。
裏側と表側について、そして「見えないけれど存在している」ということについて、《ニュースペーパー》では別のアプローチで問いかける。作業員が壁の表側を叩き、中の構造を探り続ける様子が仮設壁に実物大で投影されている。壁の内部に構造物が仕込まれているのだが、それがどこにあるのか作業員は知らず、壁を叩く音質の違いで位置を識別し、スプレーでマーキングすることで構造物の存在を可視化させる。作業員の行為によって裏側の存在をあぶりだしているのである。さらに《ブラックオニキス》はもっとささやかで不気味な作品だ。人目に触れにくい複数の場所にスマートフォンのような物体が裏側を向いた状態で置かれている。木の板をスマートフォンに見えるよう削り出し、塗装したこの物体は注意深く見るとスマートフォンには見えないはずだが、私たちには日常的に使っているものや目に入ってくるものの形や印象が刷り込まれていて、似たようなものを見ると脳内で勝手に繋げてそのように見てしまう傾向がある。それは、映像を見るときも同様に出来事のプロセスや行為の証明としてしか画面を見ていないと、その背景や裏側を見逃してしまうこととも通じる。また、裏側しか見えないものというのはどこか得体が知れず近寄りがたいし、裏側だけでは人間も物も機能しない。人間と人間、人間と物、いずれも互いの表の面が向き合ってはじめて機能し、安心もする。つまり、裏側しか見えないものというのは機能していないが、確かに存在はしており、これを泉は「待機状態」と捉えているのである。
裏と表についてもう少し発展させたのが《100年待っていて下さい》であろう。円形の掃除ロボットが床から浮いた状態で固定されたまま稼働し続けている。掃除機の真下にある鏡の上にはゴミが散乱しているが、浮いているためゴミを吸い取ることができない。ゴミ越しに鏡に映る掃除機が稼働する様子(掃除機の裏側)は、掃除機としての機能を果たしていなくとも、稼働していることを示している。また、鳴り止まない掃除ロボットのモーター音と吸引音は、《ニュースペーパー》の作業員が壁を叩き続ける音とともに、稼働しつつも無益な労働でしかなく、実際には機能していないということを強調する。
待機と起動(稼働)という視点が重要なのが、展示室入り口付近を占める《シロサイ》と展示室奥の天井部に設置された《ハンモック(ピーナッツコートの家)》だ。
前者は、モデルを撮影して作成した等身大人型パネルと、モデル本人がそのパネルの裏側で静止し続けた様子を記録した映像とで構成されている。パネルとなったモデルの姿は物となり動くことはないが、その裏側で静止する彼らはパネル同様に停止しようとするが完全に動きを止めることは不可能で、写真と映像を並べることでその事実はより明確になる。しかし、ここで注目したいのは、パネルの裏側で静止し続けるモデルたちである。この「停まらない静止」の状態にある彼らは写真のように停止することはできず静止と稼働の間を揺れ動く待機状態の存在といえるのではないだろうか。
後者は、2着のダウンジャケットをつなげて寝袋のような状態にして天井から吊るし、タイトル通りハンモックのように見える作品である。ダウンジャケットは通常、移動したり活動するときに身につけるものであるのに対し、寝袋は寝るための道具である。ハンモックは寝具でありながら、周りの環境に依存したり遮断したり、移動したり変化したりする環境前提の道具でもある。稼働用の装備であるダウンジャケットで寝袋風のハンモックを作ることで、泉は眠りを停止ではなく待機状態と考え、その反対の稼働状態とを同時に捉えようとしている。ここでもまた、停まらない静止、待機状態、稼働と静止の間を揺れ動く状態についての思考が繰り返される。
泉による裏と表をめぐる考察は、見えるもの/見えないもの、存在/不在、静止/稼働といった物事の両面性の探究へと読み替えられていく。映像は人間が認識できるほど複雑な物事を捉えることはできない、ということを理解したうえで彼は映像を使いながら、私たち鑑賞者にもっと慎重に、もっと注意深く物事を見ることを促す。また、泉は作品同士の組み合わせや見え方、レイヤーはもちろんのこと、立体的な重なりのなかで物事を考え、見える部分も見えない部分も、そして見過ごされる部分も全てを計算に入れて空間を構成する。それは、泉が見ることに対して比類ない執着心と関心を抱いているからである。あらゆる物事というのは見えない部分の方が多い。しかし見えないからといって存在しないわけではない。泉はこの部分を徹底的に追求しようとしているのである。
金沢21世紀美術館学芸員
1980年愛知県生まれ、石川県在住。清須市はるひ美術館学芸員を経て現職。主な企画に「村上慧 移住を生活する」(2020-21年)、「現在地:未来の地図を描くために」(2019-20年)、「アペルト10 横山奈美」(2019年)、「アペルト09 西村有」(2018-19年)、「泉太郎 突然の子供」(2017-18年)、「SUPERFLEX One Year Project —THE LIQUID STATE / 液相」(2016年)、(以上全て金沢21世紀美術館、石川)、「ブルーノ・ムナーリ アートのなかの遊び」(清須市はるひ美術館、愛知、2014年)などがある。