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MAT Exhibition vol.2
「絵画の何か」
レビュー|天野一夫

絵画と名のつく展覧会がまだできたてのMinatomachi POTLUCK BUILDINGで行われた。

何度も死を宣告されながらも、今もって多様な様態で制作されている、美術の中心的な場所を占めてきたものをここに取り上げること自体が意味深長であるだろう。それは延命のためというよりは、現在の地点での「絵画」、あるいは絵画らしきものがどのように生成しているのかということを見定めることであった。それもかつて優れた画家を輩出したこの名古屋の地で。

会期中の3回ものトークイベントは、作家と筆者を含めて3人の美術館学芸員(その内、天野・島はそれぞれ「森としての絵画」「絵画の庭」という比較的大きな日本現代絵画展をキュレーションしている)によるものなのだが、異例なことに前2回は本展には些かの作品も出していない作家たちである。初回は70年代、2回目は80年代の生まれの作家が召喚され、そして最終回には展示されている4人の作家たちが話したのである。実際のその出品者には「絵画と並行して立体作品を制作している」共通項があるという。これは企画者である作家・佐藤克久による戦略的なものであることは明らかであった。

チラシの文章に、佐藤は書く。「描くことが生きることに直結していない人について考察します。…未だ見ぬ絵画を目指せたら…外部からの何かを無理やりにでも導入しないと…」ここに記されていることに尽きている。絵画は特別視され過ぎて絵画独自の場ではまり込んでいて身動きが取れない。自らの制作の困難さをベースに、この状況への憤懣も含めた意志がここには滲み出ているだろう。

では実際にはどうであったのか。絵画への外部の取り方が確かに異なっている。初回の作家たちに外部がなかったわけではないが、最もメチエも美術史への意識も共に強いだろうことは言うまでもない。2回目の作家たちは多様だが共にしっかりと絵画を描いている。しかしそこで未だその外部と内部との関係について模索している段階であろう。そして出品作家である。しかし私は世代論は取らないし、最年少が最前衛だとも思わない。

実際の展示を行っていた作家たちは、なぜか均質性も感じられた。4人の作家なのだが、境目無く展示された会場では1人の個展のようでもあった。確かに様々な物質がそこにはあった。あえて完成性を見せずに、未然のままにフレーム外のモノとわたり合う。通常は壁面と考えられている絵の掛かる面は開閉し、そこではどうやら合計4回も展示を変えていたらしい。筆者はそのうちの1回しか見られなかったが(通常の鑑賞者はそうだろう) 。

絵画の外部と考えられてきた現実世界の在り様の只中で作品をかんがえることは現代においてはむしろよく見られることでその方法論がさまざまな場で探求されている。ここでも確かに微かなイリュージョン性のみが残されて物質に還元された絵画面は展示によってその度にシャッフルされて、壁の裏面と関係したりなどさまざまな局面を生んでもいたようだ。インスタレーションとしての展示主体の在り様。しかしその揺らぎにおいては、緊張関係は生まないで、むしろ均質に拡がっていってしまう。むしろその仕掛け人である最年少の川角岳大が絵画以前の「見る」ことの表現に拘っていたのも興味深い。ただし川角の発言はさまざまなピクチャレスクな画像が我々に既に織り込まれていることを無視し、裸眼の視覚を前提にしているような素朴認識論に近い。ここに「未だ見ぬ絵画」は文字通り見えてきてはいない。発言と作品自体は納得できるものではないが、逆に言えば、そこに可能性はあるだろう。このメチエの感じない弛緩した只中からどのような造形が創出するのかを見守りたい。

プロフィール
天野一夫
Kazuo Amano

美術評論家
1959年東京都生まれ、愛知県在住。O美術館学芸員、京都造形芸術大学教授、豊田市美術館学芸員を務める。主な企画に「ART IN JAPANESQUE」(O美術館、東京、1993年)、「メタモルフォーゼ・タイガー」展(O美術館、東京、1999年)、「近代の東アジアイメージ —日本近代美術はどうアジアを描いてきたか」(豊田市美術館、愛知、2009年)、「変成態 —リアルな現代の物質性」展(gallery αM、東京、2009–10年) などがある。